2023年3月期決算から、上場企業を対象に「有価証券報告書(有報)」における人的資本情報の開示が義務化されました。この大きなルール変更に伴い、多くの経営層や人事責任者が「何を、どこまで、どのように開示すべきか」と頭を悩ませています。
中でも対応が急務でありながら、指標の選定が難しいのが「メンタルヘルス」を含む健康関連の領域です。
本記事では、「人材版伊藤レポート」の理念や国際規格「ISO30414」の要件を紐解きながら、人的資本開示においてメンタルヘルス分野で求められる具体的な開示項目と、企業価値を向上させるための実務対応について解説します。
人的資本開示において「メンタルヘルス」が重視される背景

これまで、企業のメンタルヘルス対策は「労働安全衛生法に基づく義務」や「休職者を減らすための福利厚生」といった、いわば「守り(コスト)」の側面が強調されてきました。しかし、人的資本開示の潮流の中で、その位置づけは「攻め(投資)」へと劇的に変化しています。
「人材版伊藤レポート」が示す健康とパフォーマンスの相関
経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」では、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」の重要性が説かれています。
従業員が心身ともに健康で、心理的安全性が担保された職場で働ける環境(ウェルビーイング)がなければ、イノベーションや高い生産性は生まれません。つまり、経営戦略と連動した人材戦略を実行する上で、従業員のメンタルヘルス状態は「人的資本の価値を測る最も基礎的な土台」として投資家から厳しく評価されるようになっているのです。
有価証券報告書とISO30414で求められる指標(開示項目)
人的資本開示の国際的なガイドラインとして注目されているのが「ISO30414」です。ここでは11領域58指標が定められており、メンタルヘルスに関わる項目は主に以下の領域に該当します。
ISO30414における該当領域
1.健康・安全(Health and Safety): 労働災害の発生率、休業日数、健康起因による欠勤率など。
2.組織文化(Organizational Culture): 従業員エンゲージメント、定着率、満足度など。
3.採用・異動・離職(Turnover and Retention): 離職率、離職の理由(メンタル不調が背景にあるか等)。
有価証券報告書で記載すべき「戦略」と「指標・目標」
日本の有価証券報告書では、内閣府令により「人材育成方針」や「社内環境整備方針」に関する「戦略」と、それらを測るための「指標と目標」を開示することが求められます。
単に「ストレスチェックを実施しています」という事実(コンプライアンス対応)を記載するだけでは不十分です。「経営課題を解決するために、どのようなメンタルヘルス施策(戦略)を行い、その結果どのような数値(指標)を目指すのか」というストーリーが不可欠となります。
実務で使える!メンタルヘルス開示の具体例と5つのKPI

では、具体的にどのようなデータを揃え、開示項目として設定すべきでしょうか。先進企業でも採用されている、投資家に対する説得力を持った5つのKPI(重要業績評価指標)を紹介します。
1.従業員エンゲージメントスコア(eNPS)
メンタルヘルスが良好に保たれている証拠として、最も汎用的に使われる指標です。「自社を親しい知人や友人に勧めたいか?」を測るeNPS(従業員ネットプロモータースコア)や、ワーク・エンゲイジメント(活力・熱意・没頭)の測定結果を開示します。数値の推移だけでなく、スコア向上に向けた具体的な施策とセットで記載します。
2.アブセンティーイズム・プレゼンティーイズムの推移
心身の不調による見えない経済損失の指標です。
- アブセンティーイズム: 病気欠勤率や休業日数。
- プレゼンティーイズム: 出勤しているがパフォーマンスが落ちている割合(WLQやWHO-HPQ等のツールで測定)。
これらの数値を定期的にモニタリングし、「施策導入前と比べて○%改善した」と開示することで、投資対効果を明確にアピールできます。
3.ストレスチェックの「高ストレス者割合」と集団分析の活用
法律で義務付けられているストレスチェックも、開示の強力な武器になります。全体の受検率だけでなく、「高ストレス者の割合」や「総合健康リスク(全国平均を100とした場合の自社のリスク値)」を年次で比較・開示します。改善傾向が見られれば、社内環境整備が適切に機能している証明になります。
4.メンタルヘルス起因による休職率・離職率
離職率を開示する企業は多いですが、一歩踏み込んで「メンタルヘルス不調を理由とした休職率・離職率」を算出し、その減少を目標に掲げる企業が増えています。これは「人的資本の毀損(人材流出)」をいかに防いでいるかを示すダイレクトな指標です。
5.管理職向けラインケア研修の受講率と効果
現場のマネージャーがいかにメンタルヘルスへの理解を持っているかは、組織のレジリエンス(回復力)に直結します。「管理職のラインケア研修受講率100%」といった目標数値を掲げ、メンタルヘルス不調の未然防止(一次予防)に全社で取り組んでいる姿勢を開示します。
先進企業に学ぶ、ストーリーのある開示事例

投資家が高く評価するのは、指標の「点」ではなく「線(ストーリー)」です
【開示ストーリーの好例】
- 経営戦略との紐づけ:「新規事業創出による売上○億円達成のためには、社員の多様な知と挑戦する風土(心理的安全性)が不可欠である。」
- 課題の認識: 「しかし、直近のデータでは特定部門の高ストレス者割合が高く、プレゼンティーイズムによる損失が懸念される。」
- 施策の実行: 「そこで、EAP(従業員支援プログラム)の拡充と、全管理職対象の1on1メンタリング研修を実施した。」
- 指標と目標: 「結果として、2025年までに総合健康リスクを90以下に抑え、エンゲージメントスコアを前年比120%に引き上げる。」
このように、「経営課題」→「人事課題」→「メンタルヘルス施策」→「KPI・目標数値」が一貫していることが、有価証券報告書における理想的な開示と言えます。
自社で今すぐ揃えるべきデータと準備ステップ
実務において、これらの開示準備を進めるためのファーストステップは「社内に散在するデータの統合」です。
メンタルヘルスに関するデータは、人事部(勤怠・休職データ)、産業保健スタッフ・健康保険組合(健診結果・ストレスチェック・医療費)、経営企画部(エンゲージメント調査)など、複数の部署にまたがって管理されていることがほとんどです。
まずは以下のステップで準備を進めましょう。
- 部門横断プロジェクトチームの発足: 人事、経営企画、産業医などが連携できる体制を作る。
- 現状データの棚卸し: 自社で今、客観的に証明できる健康・メンタルヘルス関連データは何かをリストアップする。
- 経営陣との目線合わせ: 「どの指標を開示することが、自社の企業価値向上ストーリーに最も合致するか」を経営会議で決定する。
まとめ 義務ではなく、企業価値向上のチャンスとして捉える
人的資本開示におけるメンタルヘルス指標の公表は、決して「ネガティブな情報を暴かれるリスク」ではありません。むしろ、従業員の心身の健康に真摯に向き合い、改善を続ける姿勢を示すことで、投資家からの信頼を獲得し、労働市場においては優秀な人材を惹きつける強力なブランディング(採用力強化)に繋がります。
ISO30414のフレームワークや人材版伊藤レポートの視点を活用し、自社の「健康経営」がいかに企業の持続的成長に貢献しているかを、自信を持って開示していきましょう。
